東日本大震災 被災地の小学生~入学から卒業まで~ 3.あの日、3月11日午後2時46分

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3.3月11日 午後2時46分

撮影・文/片野田 斉

【前回の記事】●2.古くて新しいランドセル

< 連載 第1回目 から読む >

岩手県宮古市田老町、前田九児(きゅうじ)くんと濵崎陽世(ひとき)くん。小学校入学を直前に控えた2人の子どもたちと家族の震災当日に、時計の針を巻き戻してみる。

 

2011年3月11日14時46分、地震が起きた時、前田九児くんの母親・恵美さんは、港から100mも離れていない自宅に五男・三四郎くん(3歳)と六男・石松くん(2歳)といた。前田家は6人兄弟の8人家族で、九児くんは4番目。仲良しの陽世くんと近くの児童館に行っていた。

いままでに経験したことがない激しい揺れだったが、家の物は何も落ちなかった。すぐに停電になり、テレビは見られない。防災無線も聞こえない。

田老町は過去何度も大きな津波に襲われた土地だ。近隣から嫁いで田老町に来た恵美さんも、まず津波のことが頭をよぎった。緊急時の避難所になっている近くの山の上にある神社に逃げようと家を出たが、九児くんを迎えにいったほうがいいと思い、2人の子どもと車に乗った。地震から10分も経っていなかった。

 

家の周りは静かだった。隣のじいちゃん、ばっちゃんが逃げようとしていたので「早く逃げて」と声をかけて車を出した。道は空いていた。児童館は車で5分たらず。九児くんは揺れた時に机の下に隠れておびえていたが、お母さんが来てくれたので安心した様子だった。

3人の子どもと一緒になった恵美さんは、次に小学五年生の山(たかし)くんを迎えに小学校に向かった。小学校では状況がはっきりするまで子供は返しませんと言われたが、他の保護者が「是非連れて帰りたい」と訴えた。返す、返さないで10-15分くらいやりとりがあったが、恵美さんは黙って待っていた。結局返すことになった。

 

恵美さんは神社に避難しようと車を走らせる。その時、右手に見える海抜10mの防潮堤の倍ぐらいの高さに跳ね上がる水しぶきが見えた。「津波だ」と叫ぶまで、子どもたちは気がつかなかった。音は聞こえない。左に曲がり、高台にある中学校の裏山を目指す。

校門に車を駐め、石松くんを抱っこして走る。九児、三四郎は自分で走る。その直後、津波は中学校の校庭まで押し寄せた。間一髪助かった。

夢中で山にかけ上がる途中、振り向くと街中の何もかもが流されているのが見えた。3時40分ごろだった。逃げている途中思った。父ちゃんはダメかもしれない。夫は漁業協同組合の職員で消防団員なので、海際で作業しているはずだ。きっと津波にのまれただろう。

山を登りながら、6人兄弟の次に欲しかった女の子は、もう産めないと思った。

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写真提供:田老漁協

 

陽世くんの母親さゆりさんは、そろそろ児童館に迎えにいく時間だなと思っていた頃、激しく揺れた。自宅に一人だったこともあり、尋常ではない揺れに怖くて涙が出た。なぜかコーヒーを入れて飲もうとした。落ち着こうと思ったのだろう。

しかしまた揺れてコーヒーはこぼれ、停電した。児童館に一緒に通っている母親が車で来てくれて迎えにいった。児童館に着いたのは3時ごろ。陽世くんはなんだかわからないようで怖がっているようすもなかった。家に戻ったがどうすればいいのかわからず落ちつかない。

なぜか陽世くんのリュックにコッペパンを3つ詰めて、たまたまその日に貯金箱の小銭を両替していたお金を財布にいれて外に出た。毎年防災訓練はしていたが、まさかこんな地震がくるとは思ってもいなかった。

 

家の裏がすぐに山なので、とにかく高いところに逃げなくてはと山にあがると、近所の人が30人ほど集まっている。ジャンパーを着ていたが、あんまり寒かったので家に毛布を取りに行こうと階段を途中まで降りたが、途中、「でもいい」と思い直して高台に戻った。何となく。

「津波がくっぞ、津波がくっぞ」と誰かが叫んだ。近所のおばちゃんたちが家財を取りに家に戻っていた。「戻れ、戻れ」と皆で叫んだ。そのとき鮭番屋(漁師の作業所)の大きな小屋が流れてきた。言葉も出ない。

あれ、あれ、何だっけ。まるでミニチュアの何かを見ているよう。でも違う、違う、あれは本物だ。おばちゃんたちは流された。

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写真提供:田老漁協

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写真提供:田老漁協

 

九児くんの父親・前田宏紀さんは、激しく揺れた時、職場の漁協にいた。すぐにオートバイに飛び乗り消防団の屯所に向かった。非常事態には大至急駆けつけることになっている。地震発生後5分で屯所に到着し、ポンプ車に乗り水門に向かう。地震が起きた時は速やかに水門を閉じなくてはいけない。

サイレンを鳴らしながら「あれだけ揺れたんだから津波がくっぺな」と分団長と話していたが、防潮堤でおさまる程度だろうと思っていた。途中見かけた人に避難を促す。海に近い水門を2か所閉めて自宅の近くを通る。夫人の車が見えない。避難したなと思った。

漁協に寄り、先ほど閉めた水門の確認に行ったのは3時15分くらい。水門の下から水が出ていた。自宅の前を再度通ると誰もいないので逃げたと確信した。

 

別の水門に行き堤防に上がり下をみると、その辺の物が流されていた。水の高さは2-30cm程度だが、勢いが違う。船も流されていた。二重の防潮堤の最後の守りとなっている漁協の水門を閉めるため、急ぐ。水門はかなり重い。機械では遅いので手で押して閉める。

海側の防潮堤を見ると、堤を越える勢いで波が来ている。急いで防潮堤の上を走って逃げる。避難所の神社にあがる階段にたどり着いてすぐ、津波に追いつかれた。津波は高台のほうから流れてきた。川を逆上った津波があふれてきたのだ。

目の前に津波にのまれた消防士が流されてきた。皆で救出すると腕を骨折していた。津波の中で何かにぶつかったようだ。

 

避難所の高台から変わり果てた町を見て、津波って本当に来るんだと呆然とした。その後は山火事が発生し、消火活動に深夜まで追われた。家族は役場にいると仲間から聞いていた。その夜はポンプ車の中で眠った。

翌日の午後に活動から一旦解放されたのでトンネルを歩いて役場にいき、ようやく家族の無事をこの目で確認した。消防団の活動がいつまで続くかわからないので、家族は夫人の実家に避難させた。

 

明治・昭和の大津波の教訓をもとに築かれた、総延長2.5km、海抜10mの防潮堤。「万里の長城」とも呼ばれた防潮堤に守られていたはずの田老町はどうなったのか。震災の翌日から東北に入って撮影を続けていた私は、4月2日、田老町に入り、避難所で2人の子どもたちと出会った。

 

>> 4.復興の長い道

 

片野田 斉(かたのだ ひとし):
報道写真家。1960年生まれ。明治学院大学卒業後、週刊誌、月刊総合誌を中心に活躍。
2001年9月11日の米国同時多発テロ事件に衝撃をうけイスラマバードへ。以降パキスタン、アフガニスタン、パレスチナ、イラク、北朝鮮などを次々に取材。ニューヨークに拠点を置く世界的写真通信社「Polaris Images」メンバー。
東日本大震災では長く現地取材を継続し、2012年には「東日本大震災記録写真展『日本!天晴れ!』」を5ヶ月半にわたって東京で開催。
著書に、元ハンセン病患者を長期取材した「生きるって、楽しくって」(2012年、クラッセ)、児童書「きみ江さん:ハンセン病を生きて」(2015年、偕成社)、「中国(世界のともだち)」(2015年、偕成社)など。

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