野球に打ち込む少年たちを描いた大ヒット作品『バッテリー』をはじめ、思春期の子どもたちを鮮やかに描き出す小説家のあさのあつこさん。小学生限定の新人公募文学賞「12歳の文学賞」の審査員も務めていらっしゃいます。
ご両親が共働きだったあさのさんは、放課後は食堂を営む祖母のもとで過ごしていたのだとか。そこでは学校では学べない、貴重な体験も。
そして、生活の支えになっていたのは、大好きな漫画でした。
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■ほっとひと息つける祖母の食堂で世間を知った小学生時代
祖母の手作りの料理をはよく食べていて、中でも好きだったのがラーメン。昆布と鶏ガラと野菜を煮込んだ醤油味でした。お客さまにも評判の味だったんです。親子丼やカツ丼なんかもよく食べていました。
そういえば、今話題の岡山発祥のデミカツ(デミグラカツ丼)って、よく子どものときに祖母が食べさせてくれていたんですよ!
友だちには「いーなー、あつこちゃんは。そんなすごいもの食べられて」とうらやましがられていました。そういうのはけっこう自慢でした。
食堂は小さかったですが、いろんな人が来ていて。ヌード劇場のダンサーさんとか、強面の男の人、近隣のお百姓さんとか。世の中にはいろんな人がいるんだ、ということをここで学びました。
たとえ体に模様のあるような人でもおいしいものを食べるときは、やさしい顔をすることも知ることができた。人を教えてもらったのが祖母の食堂なんです。それは今、ものを書くうえでベースになっている気がします。
小学校も高学年になると、おこづかい目当てではあるんですが、食堂のお手伝いもしていました。そこで器の洗い方、野菜の切り方や使い方など、料理にまつわるあらゆることを徹底的に教え込まれました。それは自分で台所に立つようになってからも生きています。
■教師だった母、厳格な父 好きなアニメも見られず
一方、家では、母は高校の教師だったので、よく生徒さんが出入りしていました。進学の悩みを相談しに来ていたり、ときには家出をした人を探しに行ったり。だから小学生のころは「お母さんは私より生徒のほうが大事なんだ」なんて思ったりしました。
特に私は3人きょうだいの真ん中で放っておかれがちだったので、意外に被害妄想的なところがあったんですね。大人になってからは、母も先生として一生懸命だったんだな、とわかったんですが、子どものころは母とは少し距離がありました。
父は単身赴任のときが多かったのですが厳格な父でしたので、子どものころは怖かったですね。当時はちょうどテレビが普及し始めたころで、みんな夢中になっていたのですが、父は「6時以降は見せない」「テレビを見た分は勉強しなさい」など、逐一ビシッと決めて、私たちはそれに従わなければいけなかった。
当時は、「鉄腕アトム」とか「黄金バッド」とか、アニメが出始めたころで。あら、こんなことを言うと年がわかっちゃう(笑)。アニメ番組をすごく見たかったのに、なかなか見られなかった思い出があります。そういうこともあり、祖母の食堂は、ほっとひと息つける場所でもありました。
■当時は漫画の黎明期 そのおもしろさに支えられた
そのころから、3つ上の姉がよく漫画雑誌を読んでいた影響もあって、漫画も大好きでした。ちょうど手塚治虫さんを筆頭に、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、藤子不二雄さん……と、漫画の黎明期を支えたそうそうたる大御所が若手として活躍していて。
漫画文化がものすごい勢いで成熟していた時期で、すごく魅力的でおもしかったですね。その後、今度は少女漫画がおもしろくなってきて。中学に入って海外ミステリーのおもしろさに目覚めるまではずっと漫画が好きでした。
私の子ども時代は、漫画のおもしろさに支えられていたとも言えますね。
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